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2011年8月18日木曜日

2011/8/7-8/9ナガサキ平和代表団 感想文 母

題名 つなげる大切さ   (東 真貴)

 7年前の春休み、町友会(東友会の町田市の会)と、東都生協町田支部の交流企画がありました。そこで、『かよこ桜』の作者の山本典人先生に出会いました。
山本先生は、1945年8月9日、長崎に原爆が落とされた日、長崎駅前での学徒動員作業中に被爆されました。
ある年、平和祈念式典が行われている城山小学校で校庭の桜、かよこ桜に出会われその由来を知り、かよこ桜を植えたお母さんにお話を聞きに行かれたそうです。そして、小学校の教員としてこれを子ども達に伝えていくのが自分の勤めだと思われこの本ができたと、『かよこ桜』のことをお話ししてくださいました。
当時、6歳の息子と4歳の娘と一緒に、山本先生が用意してくださった長崎の爆心地の地図をみながら、いつの日か、城山小学校に行き、かよこ桜に会いたいな…と思いました。
そして、当時4歳だった娘はこの夏12歳になり、長崎に行きたいと言いました。ほぼ毎年、東都生協の平和のつどいに息子と三人で参加していたこと、6年生になり授業で戦争についてが始まったことが娘のこの気持ちにつながったのかな、と母として頼もしく思いました。

 1日目、まず爆心地の松山公園に足を運びました。この地を中心に2.5kmにも及ぶ地域が破壊されたのです。そして隣の平和公園を歩き、被爆者の店の二階にある長崎原爆被災者協議会へ行きました。そこでは、小峰秀孝さんの証言をお聞きすることができました。小峰さんは4歳のときに被爆して右足が変形して前を向いて歩くことができなくなってしまいました。小学生のころは、横にしか進めない小峰さんのことを「カニのようにしか歩けないのか」といじめられたそうです。被爆して体が辛いだけではなく、同じ土地の人からもいじめられたそうです。三度も手術を受けたけれど、現在も親指しか地面についていなくて、原爆のケロイドなどは容易に治らないと足の写真を見せてくださいました。お孫さんが小さい時、おふろで「じいちゃんその足どげんしたと」と、と言われ、「中学生になったら(理解できるようになったら)」と答えたそうです。このことが、自分史『じいちゃんその足どげんしたと』を書かれるきっかけになったとお聞きしました。原爆投下時の小峰さんにおきたこと、その後の体の事、被爆者の現実の歴史、お話を聞いている最中、涙が止まりませんでした。
その後、原爆資料館を見て回った後、出口の書籍販売店で娘が小峰さんの本(廃番になったと小峰さんからお聞きした)を発見し、読みたい!! と、強く訴えてきました。資料館の中では、娘と原爆が落とされるまでの経過を声に出して読みました。また、熱線による溶けたものなど、直接触れられるものには進んで触れました。聴いて、見て、体感することで、娘は貴重なものをいただいたのだと感じました。もちろん夜は、その本を読みながら眠りました。
 2日目、とうとう城山小学校に行くことができました。集合時間より早めに着いたということで、娘と私は真っ先に『かよこ桜』に会いに行きました。想像をこえる大きさでした。これが爆心地から500Mのこの場所に、65年前に植えられたものなのか…と、びっくりしました。たくさんの人たちが、祈りと希望を注いで大切に育ててきたのでしょう。山本先生に伝えていただいた『かよこ桜』をもってこの場に立てたこと、娘と同級生の城山小学校の子ども達の活動を目の当たりにしたこと、それを子どもにつなげたことに胸がいっぱいになりました。城山小学校には、他にもたくさんの祈念の場所がありました。また、学校の周辺にもたくさんの歴史や遺志の場所があり、ガイドの方にひとつひとつお話を聞くこともできました。
午後からは、ナガサキ虹のひろばに参加しました。そこでは、和田耕一さんによる証言とその証言から作られた劇を見ました。和田さんはチンチン電車(路面電車)の運転士でした。当時おとなは、戦地に行っていたため学生(今の高校生や中学生)が運行していたそうです。また、車掌には小さな女学生もいたそうです。当日、脱線事故などの影響で運行のずれがあったために和田さんは、3.5kmの地点にいて命は助かったそうです。しかし、爆心地近くにいた仲間の一人が「ぼくはなんもしとらん」そう2回言って亡くなっていくのを何もできずに見ているしかなかったそうです。班長だった和田さんは、仲間を亡くされた苦しみは人一倍だったのではないでしょうか。
会場には、『東日本大震災に対する生協の取り組み』写真展もあり、記録映像もながれていました。サブタイトルの ~助け合い、支えあう心を広げて~ というのを強く感じる事ができました。本当に、つながることの大切さ、平和あっての生協活動だと思いました。
 3日目、八時半の開館にあわせて、国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館に行きました。ここには、遺影や手記を音声や映像で収蔵されていて自由に見る事ができます。また、追悼空間に入る前には、前室があり、ここで追悼空間に入る前に心を落ち着けます。この日は8月9日、死没者名簿は、被爆66周年・長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典会場にあるため棚は空でしたが、この棚の方向は爆心地にむいているということでした。
交流ラウンジにでると、長崎原爆写真展『IBUKI・息吹き ~原子野からの復興 ここから私たちは立ちあがった~』の主催者、深堀好敏さんに偶然お会いすることができました。深堀さんのご自宅は当時、爆心地のすぐそばでお米屋さんをされていたそうです。当日は「山の向こうでの学徒動員作業をしていて命は助かりましたが、いままでの爆弾と原子爆弾の違いが分からず何が起きたのか、全く理解できなかった」と、お話してくださいました。深堀さんは現在も爆心地から離れず、長崎が最後の被爆地にと願い訴え続ける活動をされているそうです。そして、放射線の恐怖を身をもって体験した私たち被爆者は、今、たくさんの仲間に支えられていることに感謝しています。しかし、伝える人間が少なくなっていることを心配されているともおっしゃっていました。
その後に出席した、平和祈念式典で感じたことは、毎年行われる祈念式典を形として言葉を述べる場ではなく、心をつなげる場であること切に望みたいと思いました。なぜなら、先日行った松代大本営地下壕での地元長野の高校生の案内活動や、長崎原爆資料館・ふりそでの少女像での京都の中高生の案内活動、そしてこの平和祈念式典の司会が長崎の高校生であることや出席者の平和というものへの姿勢と宣言との、地元の人思い、活動している次世代を担う子ども達の平和な未来への思いとの乖離を感じてしまったからです。

私の両親は戦後生まれです。また、つらい記憶を口にするのは…と、両親も親兄弟などから聞くことはほとんどなかったそうです。なので、私には戦争についての記憶を身近なものとして子ども達に伝えていくすべがありませんでした。
3日目にお会いした深堀さんは、「原爆の影響で70年は住めない町、草木も生えないといわれた長崎の土地に、2-3か月でサツマイモの芽が出たんですよ。灰色の世界に緑が生まれたんですよ。どんなに感動し勇気づけられたことか…。しかし、当時は放射能のことなんて知らないから、それを食べて生きてきました。82歳になりました。放射能は怖いものですが、福島の人たちには長崎の我々の姿を伝えて、勇気を持ってもらえたら…」と、「なんでまた再び、核の脅威に遭遇するのか…」と、福島原発で苦しんでいる方々に心を痛めていると、お話ししてくださいました。
 どうしたら戦争や核兵器がなくなるのでしょうか…。
 今もまだ、体も心も傷ついている人はたくさんいらっしゃると思います。完治することは難しいと思います。しかし、これ以上、苦しみ悲しむことがないように、平和というものについて、科学の正しい使い方について、地球は人間だけのものではないということについて、忘れず考えていきたいと思います。


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記録として日記にしました

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